現在、一つの企画を立ち上げようとしている。
《藝術と思想》という会である。
何故このような会を立ち上げようと考えたのかといえば、盆休みにおいて、京都で初めて会ったTwitterのフォロワーさん(文学好き、社会問題に熱心)からもらった次のような言葉が直接の契機となっている。
「僕の周りに文学の話ができる人っていないんですよね」
自分の好きなものの話ができないというのは、どれほど孤独なことだろうか。
こんなに好きなものがある人が、藝術を思考し時代を掬い取ろうとしている才能ある若者が、これほど孤独になってしまっていていいのだろうか。
そんな問題意識が私の中で湧き上がって来たのである。
その時、東京の芸術大学に通っている友人と酒を交わしながら、藝術・文学・日本思想について喧々諤々の話し合いをしていた2年前の沖縄居酒屋の風景を思い出したのであった。
「デュシャンのようなポストモダンのものは藝術を馬鹿にしている」
「僕は西田幾多郎が好きなんだ」
「きっと周りに僕の芸術を理解させてやる」
友人は、このような言葉を吐き、泡盛をグイと飲み干していた。
きっと彼は、誰かに話をしたかったのだ。
自分の愛するものの話を。
彼には場があった。
芸術を発表する場が。
彼には友人たちがあった。
愛するものの話ができる友人が。
その点において、彼は恵まれていた。
今では、国内外を問わず人気があり、多くの絵が色々な人の元に置かれているらしい。
しかし、他の人にとってはどうであろうか。
先ほどのフォロワーさんのように、好きなものの話ができないまま、ひっそりと孤独を抱え、活躍できる場所も見出せずに日々を送っているのではないだろうか。
こういう人々に場を作りたいと思ったのである。
それと同時に、今年ご逝去された大学研究会の恩師の言葉が頭にあるのである。
「君たちはこの一節をどう読む」
「君たちは石牟礼道子にならねばならない、と僕は思う」
ある時の研究会で、石牟礼道子『苦界浄土』一節のコピーを我々に見せ、先生はこう仰った。
先生は哲学を専門に研究されていたが、我々に教えてくれたものは、思索の海に沈んでいくということではなかった。
常に人との関わりの中で思考し、芸術を、思想を、生み出すこと。
社会との交わりの中で、本質を、人間を、見つめること。
(その上に、生きた芸術を作ること)
流されないために、議論をやめないこと。
先生から教わったのはこれらのことだった。
もし、もしも、先生にできなかったことがあったとすれば、次のことであろう。
私は、この会《藝術と思想》で出来る次のことが、先生のいないこれからの時代でできる唯一のことだと考えている。
①芸術・大衆文化批評や歴史、文学、哲学、現代の社会問題など、人文科学・社会科学とそこに隣接する領域に関わる事象についてSkypeで議論をする。
②市民による芸術(美術・文学・映画・建築・写真etc...)・大衆文化批評、社会学・哲学論考、並びに小説・写真などの各種創作を掲載した冊子を製作する
(より現代に即応し、映画なども掲載できることから、Webメディアを製作しての掲載となる可能性もあり)
私はこの二つの着想を、哲学者・鶴見俊輔が主催した『思想の科学』から得ている。
www.youtube.com
(この動画は、二つの動画が繋げられており、本編自体は、1:29:28頃に終わっている)
少し長いが、上に添付した動画を是非見てみて欲しい。
『思想の科学』では、市民が主人公となり、自由に意見を発信できたのである。
私にとっては、これが理想なのである。
この理想に共鳴してくれる人は、ぜひ私たちの取り組みに一緒に参加して欲しい。
(当方は、『思想の科学』とは無関係です)
まずは、参加してくれる方、興味がある方とSkypeで話してみたいと考えている。
(もちろん一回話してみて、自分は違うと思ったら参加しなくても全く構わない)
初回開催概要は以下の通りである。
日時:平日か土曜日の夜21:00頃から、1〜2時間程度
もしくは、土曜日の日中。検討日は、9/9, 9/13, 9/15, 9/20(要相談)
対象年齢:なし。
ただし、私が22歳ということもあり、若者が多くなる可能性が高い。
使用ツール:Skype(ビデオ通話)
費用:当然、無料
テーマ:自己紹介、これからこの団体でやりたいこと、『芸術(美術・文学・映画・建築・写真etc...)と私』、etc(調整中)
参加連絡:コメント欄かTwitterまで
※注意
①特定の思想・信条・意見を押し付けること禁止
②話を途中で遮ること、露骨に意見を否定すること禁止
③ナンパ・出会い目的禁止
④匿名可
少し長くなってしまったが、以上である。
妙に感傷的な文章になってしまったものの、私もまた、人と話がしたいだけなのかもしれない。
多くの方の参加を、心からお待ちしている。